当麻とあゆの物語
ずだだっ。盛大な音を立てて階段から当麻が転げ落ちた。
音を聞きつけて皆が走ってくる。
「当麻! 大丈夫?!」
真っ先に亜由美が駆けつける。
「いてぇー」
と当麻が呟く。
それから不思議そうに亜由美を見る。
「あんた、誰?」
その言葉に亜由美は凍りついた。
「階段から落ちたときに軽く頭を打ったのでしょう。ショック性の一時的記憶喪失だね」
亜由美の東京の主治医はそう言った。
今でこそおとなしいが、生傷の絶えない、さらに命までたびたび危うくする亜由美は東京に行き付けの大学病院があった。
ナスティに運転してもらい、亜由美はこの病院へ当麻を連れてきた。
いつぞや、亜由美が記憶を失ったときもここで見てもらった。
「それにしても、君達は本当に似たもの同士だね」
主治医が笑う。
面目ない、と亜由美がぽりぽり頭をかく。
「まぁ。刺激しないようにしていれば大丈夫でしょう。いずれ戻ると思いますよ」
そういって医者は言葉を締めくくった。
ナスティと一緒に部屋を出る。
当麻は念のためにMRIを受けている。
はぁ、と亜由美はため息をつく。
こんな時、当麻はどう対処したのだろう?
数年前、亜由美が記憶を失ったとき彼は見事に対処した。彼がどうであったか思い出す。彼は亜由美を腫れ物扱いしなかった。悲しみに浸るよりはより建設的だが、その一方で自分が大切にされていることを思い知る。
どちらがつらいのだろう?
考え込む亜由美にナスティが大丈夫よ、と声をかける。
亜由美が不安に涙ぐむ。ナスティはこのか弱いあどけなさの残る少女を抱きしめた。
検査の結果、脳に異常は見られなかった。それだけでもよかったと亜由美は思う。彼の頭脳は彼の宝物である。
それが無事でよかったと胸をなでおろす。
戻ってから考えよう。亜由美は以前、当麻がこぼしていた言葉を心の中で繰り返した。
亜由美はどうするのか問われて、当麻を自由にさせることにした。
あの時、彼は亜由美の面倒を一手に引き受けたが、どうも自分はそこまでできない。
ならば、皆の手を借りられるだけ借りようと思った。
そこで手始めに皆に自己紹介を願う。
まず、遼から始まる。
当麻は天性の才能で状況を次々に飲み込んでいく。最後に亜由美の番になった。
テーブルの下で手を握り、惑う。
自分を何と言えばいいのだろう。
許婚だと言っていいのだろうか。
言わないでいることもできる。
が、また過去に舞い戻って自分の気持ちを押し隠すのか。
そのことがどれほど二人を苦しめたか知っているのに。
「姉様」
迦遊羅が小突く。
決心して亜由美は顔を上げた。
名を告げる。
「私は村瀬亜由美。当麻のひとつ違いの親戚。それから、驚かないで聞いてね」
そう言って当麻の反応を見る。彼はただ頷く。
「当麻の許婚、なの」
当麻が信じられない、といった風に亜由美を見る。
「別に思い出せなかったらそれでいいと思う。別に無理に好きになってもらおうとも思わない。いざって時は婚約を解消したらいいから」
その言葉に誰もが息を飲む。どれほど二人が思いあっているかは周知の事実だからだ。驚く皆を尻目に言葉を継ぐ。
「当麻は今の当麻でいてくれたらいい。記憶を失うことは悪いことだけじゃない。
心を軽くできるし、何よりも真っ白な心は見失っていた大切なものを見つけることができるの。そうね。きっと神様が心の休憩をくれたのね。だから無理に思い出そうとしないで。
きっと新しい当麻のこと皆受け入れてくれると思う」
さも自分が記憶を失ったことがあるかのように話すのを見て当麻が驚く。
そう、と亜由美は頷く。
「二度ばかし、記憶喪失になったことがあるの。その道ではいっぱしの口が聞けるかもしれないから、困ったら聞いてみて。一緒に考えるから」
そう言って笑う。
当麻は亜由美のその小さな体にどんな強さを秘めているのだろうと思った。
記憶を失った当麻はまず、自分の事を知ることにした。
事情聴取かと思われるような手順で皆から自分の情報を聞きだす。
遼は言う。
「当麻はいいやつだよ。頭がいいし、すばやい判断で皆を導いてくれる」
秀は言う。
「当麻って奴はよー。たまににいけすかないところがあるけど、基本的にはいいやつだよ。やっぱ、頭の良さはすげーよな」
征士は言う。
「やや軽薄なところがあるが、以前のとっつきにくさにくらべれば軽いものだな」
伸は言う。
「そうだね。時々冷たいと思うこともあったけれど、冷静な判断の上での行動なんだって最近は理解できるよ」
ナスティは言う。
「昔から特別扱いされていて、皆とどう関わっていいかわからないときもあったけれど、今はうまくやれているわ。
ちょっと不器用なのよ」
迦遊羅は言う。
「頭が良くて皆を正しい方向に導いてくれる人、かしら?」
どうも、頭の良さがメインの自分のようだ。
頭脳馬鹿だとでも言おうか。だが、亜由美の語る自分は想像もつかないものだった。
「当麻はとても優しい。いつも困ったら助けてくれる。どんなに自分がつらくてもちょっと困ったなぁ、って顔をして助けてくれるの。それから、弱さを見せるのが嫌いなのね。もっと甘えたらいいのにって思う。不器用なのね」
そういって締めくくった。
それから自分の所持品を確かめる。夏休みを利用しての滞在だと聞いたが、それにしてはいろんな本を持ちこんでいる。歴史、心理学、哲学、情報工学、宇宙物理、考古学などなど。いちいち分類していたら切りがない。自分は宇宙物理を専攻していると聞いた。
それについては謝らないと、と亜由美は言った。私がノーベル賞とってと言ったものだから、自然にそうなってしまったの、と語った。とってと言われて承諾した自分が信じられない。頼まれて取るものではないだろうに。
携帯を調べる。いろんなメモリダイヤルがある。見覚えのないものもあるものもたくさんある。あるといってもここにいるメンバー達意外知らないが。
とっつきにくいと言われた割にはかなりの人間関係だ。
メールを調べる。ここにそろっているメンバー達の名がほとんどだ。だが、圧倒的に亜由美とのメールが多かった。それはほんのたわいのないメッセージ。
何時に家に行く、どこそこで何時に待ち合わせる。ほとんど業務連絡に近い。
そこにどんな感情のやり取りがあったかは窺い知れない。
むしろ、他のメンバー達とのメールのほうがいろいろ書かれていた。
大学で何を学んでいるか、何があったかなど。映画、本、音楽の批評まであった。
果ては恋愛相談にまで乗っている。
このとき、当麻は亜由美との関係があれほど深いものだとは知りもしなかった。
ある夜中、当麻は庭を抜け出し、湖畔へと向かっていた。
視線の先に人影が二つ。
遼と迦遊羅だろうと思った。長い、ポニーテールをしていたから。
声をかけようとして当麻はとまった。
振りかえった顔が亜由美だったからだ。
二人は自分に気づいてはいない。
当麻はそっと近づいて身を隠した。なぜ、身を隠す必要があるのか分からなかったが亜由美が何を話すのか聞いてみたかったのだ。
「かゆが言っていた。そうとう参っているって」
ばれた?、と言って亜由美が笑う。だが、その微笑みは弱々しい。
「当麻はすごいよね。私が記憶を失っているとき、当麻はいつも優しかった。私のことを一番に考えてくれた。一度だけ思い出してくれと言われたことがあるけれど、それ以外は何も言わなかった。でも私には無理みたい。当麻みたいに冷静にしていられない。
思い出してほしいとかじゃないの。当麻は自分以外の人間が選ばれるのが怖いって言ったけれど、私は別にそんなこと怖くない。もし、私より素敵な人が現われたらきっと譲ってしまうと思う」
そう言って悲しそうな瞳をする。
「あゆ。だめだよ。ちゃんと当麻を捕まえておかないと。あゆがどんなに当麻を愛しているか皆、知っている」
亜由美は頭を振る。
「私の気持ちはどうだっていい。当麻が幸せになれたらそれでいいから。私が本当に怖いのは私自身。当麻は私と一緒に亜遊羅の運命を歩んでくれるって言ってくれた。だから、一緒にいられる。でも。今の当麻は? 私の運命に巻き込まれて嫌な思いをするんじゃないかしら? このまま普通に暮らせるのが普通の幸せなんじゃない? 私が当麻の幸せを壊してしまう気がして、怖い。手遅れにならないうちに、いっそ、姿を消してしまおうかと・・・」
「あゆ」
と遼が強くたしなめる。
「あゆが姿を消しても、誰一人喜ばない。逃げたらだめだ」
うん、わかっている、と亜由美が答える。
「逃げない、って当麻と約束したから」
そう言って微笑もうとした亜由美は口元を押さえた。
嗚咽が漏れる。
遼は逡巡するとためらいがちに亜由美を抱きしめた。
それを合図に亜由美が泣き崩れる。
当麻はその場を離れた。
胸が痛い。
亜由美がそんな風に思いつめているとは思いもしなかった。一番なんでもない振りをして一番こたえていたのは亜由美だったのだ。当の本人は至ってのんきなのに、彼女があれほど悩んでいるのがつらかった。彼女とのつながりが浅いものだと思っていた自分が愚かだった。短いメッセージのやり取りはそれだけで気持ちが通じ合っていると言うことなのだ。彼女は自分を好いている。だが、自分は正直、彼女のことが好きだとはわからない。というか恋愛感情が持てない。
いざって言うときは婚約を解消していい。
いつか言われたことを思い出す。
今、当麻が自分の気持ちを言えば彼女は進んでそうするだろう。
そしてやはり姿を消すのだ、と当麻は直感した。自分の幸せのために彼女は何もかも捨てるつもりなのだ。自分にどれほどの価値があるのだろう? それほど大切にされるほど自分がいい人間だとは思えない。
どうしたらいい?
どうしたら彼女のガラス細工のような心を救える?
当麻は懸命に考えた。
次の日、亜由美はなにもなかったかのように振舞う。
あれほど激しく泣いていたのにその様子が微塵もない。小さな体で懸命に動き回る彼女の姿に当麻は胸を痛めた。
そんなに、我慢しなくていい。
つらければそう言えばいいだろう?
だが、今の自分では彼女を救うことはできなかった。
好きかどうか分からないのにいいかげんなことはできない。
彼女に期待させて裏切るのは嫌だった。
昨夜、見たような悲しい涙は流させたくなかった。
当麻はいつか彼女の心がポキッと折れてしまう気がしてならなかった。
「当麻」
と遼が考え込みながら部屋に入ってきた。
「どうした?」
読んでいた本を傍らにおいて尋ねる。
「悪いけれど、ほんの少しでいいからあゆを抱きしめてあげてくれないか。相当参っているようなんだ。あゆは頑固だから皆にそういう姿をついつい見せまいとするけれど、皆わかっているんだよ。だけど、あゆの心を開けるのは当麻だけなんだ。このままだと本当に消えてしまう気がする」
当麻は最後の言葉を聞いていても立ってもいられなくなった。
「どこにいる?」
部屋を出て行きながら当麻が短く尋ねる。
「さっき、一人で散歩に出ていった。きっと湖のところだろう。あゆはいつもつらいときはそこにいるんだ」
「わかった」
了承すると湖に向かう。
湖畔に亜由美はたたずんでいた。
今にも空気に溶けていってしまいそうに。
「あゆ」
たたずむ後ろ姿に声をかける。
その声に亜由美は振りかえる。浮かんでいたはかなげな表情は彼女が瞬きすると消えていた。にこっと笑う。
「当麻もお散歩?」
ああ、頼むからそんな無理をしないでくれ。
無理して笑わなくてもいい。
当麻は何も言わず、ふわっと抱きしめた。腕の中の感触がひどく懐かしい。
「やせたか?」
ふと眉根を寄せて問う。その言葉に面白そうに亜由美は笑う。
「どうして当麻に分かるの? 記憶を失ってから当麻は今まで抱きしめてくれなかったのに」
それはそうなんだが・・・、と当麻は言う。腕が覚えていた感触で当麻はわかったのだ。
記憶を失っているのに感触は覚えているなんて、きっと何回もこうして抱きしめていたのだろう。当麻の中に切ない気持ちがあふれる。
なぁ、と当麻が言う。
「俺は記憶をなくしても別に大した事はないと思っている。あゆが言った通り、新しい自分ではじめたらいいだけのことだ。だから、あゆもこれ以上思いつめないでほしい。俺はあゆのことを好きだったことが思い出せない。今の俺自身、あゆを好きなのかもわからない。だが、あゆが自分を捨てて俺の幸せを一途に考えてくれるなら、俺もあゆに応えたい。
俺も自分を捨ててあゆの幸せを考える」
そういう当麻に向かってあゆは微笑みながら涙ぐんで、だめよと言った。
「当麻は幸せにならなくちゃ」
「どうして。それほどまでに俺のことを考えてくれるんだ? 俺はそれほど大した人間じゃない」
苦々しく言う。
どうしてこんな一途な亜由美を苦しめてまで幸せになれよう。
「当麻はすばらしい人よ。世界で、ううん、宇宙で一番すごい人。私は当麻のことが大好きだから。愛しているから。やっぱり幸せになってほしい」
そのためになら私はどうなってもかまわない、と幸せそうに亜由美は言った。
「どうしてそんなに幸せそうなんだ? つらいはずなのに」
好きな相手に好きになってもらえないことがつらいことぐらい当麻にもわかる。
「つらい? ううん。つらくなんかない。だって今、当麻に抱きしめてもらっている。それだけで私は幸せ」
そういって当麻の胸に顔をうずめる。
ああ、あゆ、と言って当麻は声を震わせた。
抱きしめるだけで幸せと言うなら何度でも抱きしめよう、と当麻は思った。
こんなちっぽけなことを世界で一番幸せといった風のあゆ。
このけなげな亜由美の気持ちに応えられないでどうして他の誰かを好きになれよう?
「時間をくれないか。俺はきっとあゆが好きになる。だから、時間をくれ」
うん、と亜由美は小さく頷いた。
それから早速当麻は亜由美を知ることから始めた。
皆に亜由美のことを聞くのも忘れていなかったが、本人からも直接聞いた。
あまりの質問攻めに亜由美自身は閉口気味だった。
いっそのこと同室にしてもらうように頼んだのだが、それは皆の反対にあって却下された。手は出さない、と言ったのだが、誰も信用してくれなかった。日ごろの行いが悪いと言われた。
俺は彼女をどう扱っていたんだ?
自分がひどく腹立たしかった。
そうしてことあるごとに亜由美を抱きしめる。
人前だろうとなんだろうと構わなかった。
ただ、彼女が幸せを感じてくれたらそれでよかった。つらい思いから解放されたらと心の底から願った。
亜由美の本当の素顔は傷つきやすい繊細なところだ。その上に子供の亜由美と大人の亜由美が微妙なバランスを保っている。ちょうど中間がすっぽり抜けてしまっているかのようだ。そしてはかなげな笑みを浮かべたかと思うと人なつっこい笑みを浮かべる。表情がくるくるかわる。それはさしずめ猫。幼い子猫だ。
そうしているうちに当麻の体の奥から亜由美との思い出がひとつ、またひとつと思い出されていく。それはジクソーパズルのピースみたいだった。
ひとつひとつは何も意味も持たない。だが、それがやがて大きな意味を持つであろう事は容易にわかった。
ただ、記憶が戻りつつあることは言わなかった。戻ったらそれでよし、戻らねば戻らない状態で未来を歩まねばならない。うかつに言い出してぬか喜びさせる気は毛頭なかった。
そしてある朝、起きれば断片は形をとっていた。ピースはひとつ残らず、はまっていた。
同室の征士はすでに起きている。
が、それ以外はまだらしい。
当麻はそっと部屋を出ると亜由美と迦遊羅の休んでいる部屋にいった。静かにドアを開け、迦遊羅を起こさないように亜由美のベッドの脇に腰掛ける。
「こら、あゆ」
と言って当麻は眠っている亜由美の鼻をつまんだ。
ふいに息苦しさを感じて亜由美は目を開けた。
当麻が優しく見下ろしている。
「お前、あれほど一人で抱えるなっていっていたのに抱えたな。おまけに姿を消すだと? そんなことこの俺が承知せん。いいか、お前は自分を捨てないで俺と一緒になるんだ。いいな。kitten」
二人だけにしか分からない秘密の言葉に亜由美は目を見張った。
悪かった、と当麻が言い終わらないか終わらないうちに亜由美は当麻の胸に飛びこんでいた。
しゃくりあげる。
「お前は、ほんっとに馬鹿だよ」
そういって抱きしめる。
亜由美が泣きじゃくる間、当麻はわるかった、と愛している、をずっと繰り返した。亜由美は記憶喪失は神様がくれた休憩時間だといった。きっと亜由美との思い出を大切にさせるために与えられた試練なのだろうと当麻は思った。
人騒がせな記憶喪失。二度あることは三度ある、という。
他の誰かが、汚染(うつ)されなかったらいいが、と当麻はひとりごちた。