赤ちゃん狂想曲・前編

「あーゆ」

当麻が珍しく甘えた声を出す。

「いってらっしゃいのキスは?」

といって頬を見せるが当の本人はつーんとすましている。

まったく。

そう呟くと亜由美の頬に軽くキスをする。

「じゃ、行って来るから。お前もがんばれ」

頭をくしゃっと一なですると当麻は大学院へ向かった。

イギリスに来てほんのわずかしかたっていない。

が、亜由美が参っていた。

語学力の乏しい彼女は現在、大学予備コースに入っている。

一時はケンブリッジに行く予定だったが、よく考えるとケンブリッジは自然科学系だ。

亜由美は理系がてんでだめだった。それでケンブリッジ市から通える範囲で学べる大学を選らばせた。

亜由美は神学を嫌っていたわりにはアングリカン・チャーチを学びたいといった。

だから、彼女が目指しているのは神学部だ。

そして現在、彼女はせっせと語学力を磨いている。

だが、周りはすべて英語。うまく話せないストレスからイライラが募っていた。

そんなある日、二人は言い争った。

それから彼女は家出するかわりにハンガーストライキを実施しているのだった。

寝室すら別にしようとするのだから手におえない。

当麻は別室の床に眠ろうとする彼女に頼むからベッドで眠ってくれと言って自分は別室で休んでいたほどだった。

はぁ、と当麻はケンブリッジの空を見上げた。

 

大学院の帰り、当麻はペットショップに立ち寄っていた。

いろいろ迷った挙句、三毛猫を一匹買う。

アニマル・セラピーと言う言葉もある。

彼女の疲れた心が癒されたらいいと思ったのだ。

子猫をいれたキャリーバックやその他もろもろを手にして家へ戻る。

帰ると亜由美は小さな庭で佇でいた。

当初、二人は大学の用意する部屋に住もう思ったのだが、そういうのは独身者向きで夫婦には向かない。

おまけに学期ごとに部屋を空にせねばならなかったし、住めるのも一年と決まっていた。

さらに二人の蔵書ときたら一部屋まるごと占領するほどだったから、しかたなく不動産をあたった。

必要な部屋数を考えているうちにどうも一戸建てになってしまった。

小さいことは小さいが。

そんなわけで二人の家にはもれなく庭が着いてきた。

亜由美はガーデニングができると手を叩いて喜んだのだったが、家賃はやたら高くなってしまった。

当麻は子猫をそっと出すと庭に出した。

子猫がミーミー鳴いて亜由美の気を引く。

「まぁ。お前、どうしたの?」

亜由美の表情が安らいだ。

当麻はほっとしながら庭の入り口から声をかける。

「名はホームズと言う。お前のだから、大事にしろよ」

そう言って当麻は部屋に入る。

亜由美は腕に子猫を抱きながら当麻の後を追う。

「この子、私に?」

尋ねる声に当麻はうなずく。

「お前、猫と犬欲しがっていからな。とりあえず猫にした。お前の言っていたとおりに三毛猫でメスだからホームズだ」

亜由美の実家には猫が二匹いる。だが、名前はごく当たり前だった。

シャーロック・ホームズのファンであり、かつ三毛猫ホームズのファンであった彼女は名前をホームズにしようと画策して失敗に至っていた。

彼女は決めていた。いつか猫を飼ったらホームズと名づけようと。条件は三毛猫でかつメスということ。

そして犬はハスキー犬と決まっていた。こちらもメスで名前をちょびと言う。

漫画、動物のお医者さんから由来している。

それを聞いたとき当麻はあいかわらず子供だと言って笑ったのだった。

亜由美は当麻の顔がやや疲れている気がした。

当麻は難なく大学院へ進んだ。しかも、普通に単位を取るのではなく、論文博士を狙っている。

それは大学院でも高度な知識を持ったものにしかできない。大学院でもワンランク上なのである。

イギリスでは大学ですら、日本の大学院に相当する。それを考えたら当麻の選んだ進路はかなりハードだった。

その上、二人分稼ぐ。

イギリスでは働いて勉学できないと亜由美は事前に調べて知っていた。

それに学費や家賃、生活費がやたらとかかる。

よほど、留学などせず、主婦として着いていこうと思ったほどである。

が、勉学に励むと言う名目で許してもらった結婚であるため、結局、留学せねばならなかった。

「当麻、疲れている? やっぱり、働きながらは無理よ。私たちの貯金を使いましょう。当麻は勉強に集中したほうがいい」

そういう亜由美に当麻は優しく微笑んだ。

「言ったろう? あゆのへそくりはあゆのものだと。それに俺はそのお金はあんまり好きじゃない。

ほとんどお前が命を削って得たお金だから」

まだあどけなさが抜けぬうちから彼女は早々と働き口を見つけていた。

ひょんな事から内調特殊課に世話になり、非公式のメンバーになっていた。

そこで彼女は役目と称して数々の事件を解決したのだった。当麻はそれを心底嫌がっていたが。

そしてためたお金がほぼ五千万ほどある。命をかけた仕事であったので破格に給料が良かった。

当麻が本式にプロポーズしたときはころっとその存在を忘れていた。あまりにも平和だったから。

当麻はそのお金を彼女の大学費用に当てることだけ許したのだった。

他は自分がまかなうと言って聞かない。当麻自身も持っていたが、当麻はそれを封印してしまった。実際の費用は働いて得るといって耳を貸さない。

当麻もこうと決めたら頑固だった。やはり意見が食い違ってしまう。

当麻は亜由美が亜遊羅として生きる事にもう反対しない。

だが、かつての異様な環境に甘んじる気はさらさらなかった。

それでも慣れない生活に四苦八苦している新妻を見ていると時々、日本へ送り返そうと思うことすらある。

離れたくないが故に結婚したが、やはり時期が早かったのではと思うのである。

いや、早いのは重々承知していたが。

ただ、そんな事を言えばさすがに亜由美もショックを受けるから言わなかったが。

すわ、離婚かということにもなりかねない。

それだけは勘弁して欲しい。

折角の新婚生活も受難の道のりが待ちうけていた。

亜由美の腕の中で子猫がひときわ高い声でミーミー鳴く。

当麻がそれに気づく。

「よしよし。お前の飯がまだだったな。今、作ってやるから」

言って当麻はさっそっく猫用ミルクを温め始めた。

哺乳瓶にいれて持ってくる。

亜由美から子猫を受け取り飲ませていが、ふと亜由美の視線に気づいてほら、と言って渡す。

手渡されて亜由美はぎこちなくミルクを子猫に飲ませる。

残らず飲んだのを見て当麻がうれしそうに笑う。

「次は排便だな。貸せ」

そう言って当麻は子猫の世話を焼く。亜由美のだと言った割には自分の子供のように扱う。

「お前はきっと美人になるぞ」

当麻は子猫をあやす。猫馬鹿というか親馬鹿炸裂である。

その姿に亜由美はぽつりと言う。

「赤ちゃん、欲しい」

当麻がその言葉にうろたえて子猫を落としかける。

危機一髪で子猫をキャッチする。

イギリスに来てまもなく、当麻はテレビに映る乳幼児の姿に顔をほころばせていた。

皆より一足早く結婚していた秀に今年、子供が生まれた。

テレビに映る乳幼児は秀の長女、メイリンを思わせてついつい顔がほころんだのだ。

その様子を見ていた亜由美が突然だだをこねた。

当麻は困惑した。出費を気にする割に出費のかさむことを言い出す。

「お前ねー。勉強しにこっちに来たんだろうが。勉強しに来て子作りに励むわけには行かないだろう?

それに出費がかさむ。これ以上扶養家族を増やしてどうするんだ。お前が勉強し終わったらいくでもつくってやるから」

そう説得したのだが、気が立っていた亜由美はさらに感情を爆発させてしまったのだった。

そして今日に至る。

「しばらく、ホームズで我慢しろ。

だいたいなぁ。子供を産むには妊娠期間が要るんだぞ。

卵を生んで孵卵器に放りこんでおくわけには行かないんだ。

それに大きいお腹抱えて苦労するのはお前なんだぞ」

「お金ならたくさんあるもん。お腹が大きくても小さくても勉強はできるもん。

大体、勉強し終わるまであと四年もある。そんなの待つのいやー」

亜由美がただをこねる。

ストレスからわざと駄々をこねているかと思ったのだが、どうもそれだけではないらしい。

今日の子猫で気が晴れたかと思ったのだが。

「お前、なんで子供にこだわるんだ?」

ふと眉根を寄せて問う。

「女の幸せだし、当麻がお父さんしているところを見ていたいから」

その答えに当麻ががくー、と脱力する。

そんな理由で子供が欲しいとは。普通は子供を望んで産むのだが・・・。

子供が子供を産んでどーするんだっ、と叫びたいところをあえてこらえる。

このままだとまた言い争いになりかねない。妥協案をひねり出す。

「ともかく一年ぐらいは新婚生活を満喫させてくれ。その後で考えてやるから」

「やだ」

ああ、もうっと当麻はやけくそになった。

「わかった。一ヶ月だけチャンスやる。この一ヶ月でだめだったらあきらめろよ」

どういうこと?、と亜由美が問う。

「今は10月。プラス10月10日は来年何月だ?」

その問いに亜由美が8月と答える。

「夏休みに産むぐらいならなんとかなるだろう。それ以上は譲歩せん」

まさか一ヶ月で子供ができるとはないだろうと当麻はたかをくくったのだった。

おまけに譲歩しているようでうまく気をそらせられる。

しかし、その秘策は脆くも崩れ去った。

 

10ヶ月後の8月10日。双子が産声を上げた。

 

後編へ続く